和44年12月29日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし、はやることなければ終わりもなし。天地日月乃心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。

 この御理解をこう頂いとりますと、金光教の、ま将来性というか、金光教はいよいよ天地と共に限りなく、はやる事もなからなければ、終わりもないのであるから、金光教はいよいよ、おかげを頂けれると言った様なふうに感じますけれども。これは、あぁ成程天地ははやることもないでしょうね、ですから、あぁ勿論終りもないわけですけれども、金光教の信心は分からんね。
 いかに教祖生神金光大神様が、後にも先にも、こういう方はおられまいと思われるほどしの、あぁ素晴らしい、大宗教家でおありになりましても、しかもその、天地金乃神と同根とまで、天地の親神様から、称えられた教祖様でありましてもね、だから金光教は将来いよいよ栄えていくばかりだ、とは限らんのですね。でここんとこはこう、そういうふうに大体、この御理解七節は頂いておりましたけど、今日は私しは、それをそういうふうに思いません。
 ひょっとしたら金光教が、潰れるかもしれん、無くなるかもしれん。只もう形式おしえにとどまってしまうかもしれん。生きた働きという、いわば天地の生きた働きというものを現わす事のできない、宗教になして・らして←(落=「ら」と読むならこの意味。渕上先生に確認すること)しまうかもしれないと私は思うんね、これは天地がはやることもなし、はやることがないから終わりもなしと、そりゃ天地がでありましてからね、金光教とはいうてござらん。
 金光教はいついつまでも繁盛すると限らないね。そこでその、ここに教えておりますように、『天地日月乃心になることが肝要なり』である。だから天地日月乃心にならせて頂くことの精進が、あぁ限りなく続けられていくならばです、これはもうほんとに天地と共にです、繁盛していくことであろう、天地と共に、はやりもなかなければ終わりもないと言う様に、いわゆるね、永続、永続性と申しますかね、あぁ永続性があるわけですけれども、天地日月乃心になることの精進がなされなくなりね。
 と言う事になってしまえばです、もうそれは、あぁ生きた働きをなくしてしまったものですからね、ひょっとすると、廃(すた)れてしまう、無くなってしまうかも、あたしは分からんと思うね。そこで天地日月乃心になる事という、私しはもういうならここ一点に絞ってです、金光教の信奉者の全部がね、精進していけばいいと言う事ですら、言えれると思うです。どうでしょうか、皆さん天地日月乃心になる事だけに焦点を置いて、信心をなさっておられるだろうかと。
只おかげを頂くために、おかげおかげと言うてお参りしておるうちに、いつの間にか枯れたものになり、いつの間にか去年よりも今年、今年よりも来年と言う様に繁盛してかなければならんのが、反対に去年よりも今年、今年よりも来年(笑い)と言う様に、裾細りになっていくかもしれません。先日私しは、あのこのお道の、お道のご本を読ませて頂いとりましたら、あのお道のやはり偉い先生が書いておられます中に、最近の教会が生き生きとした、いわばヒレイを現わす事ができないと。
 けれどもその全国どこにかです、全国に沢山の教会が、どこにかやはり教祖様の御時代のような生き生きとした、ヒレイを輝かす教会が、あちらこちらにあると言う事がです、心強いという意味の事が書いてありました。だから金光教は大丈夫だ、どこにか教祖の信心が伝わっていきよる、とこう言うわけなんです。してみるとそのどこにかであってから、そのほとんどはもう、いわゆる生きた働きと言った様なもの、段々薄ーくなっていきよるという事になるわけですからね、淋しい限りです。
 どこにか伝わっていきよるげな事、どこにかじゃいかん、お道の信心さしてもらう信奉者の全部が、またあぁ教祖生神金光大神の、御広前の延長としての教会がです、また生神金光大神のお手代わりとしての取次者、教師達がですね、どうしてそのような事になるかと私、天地日月乃心になる事に精進しないからだと思いますね。から私しほんとに金光様のご信心はね、天地日月乃心とは、どう言う様な事かと。
 もうあらゆる角度から研究してですね、それを教師も信者も教会もあげて、その事に精進する事に一生懸命努めたらいいと思うんです。あんまりこう焦点をですね、大きく広くしないで、こういうふうな、天地日月乃心になる事だけに焦点を置くね、私共もここに錯覚してるね、(?)7節頂いて、なるほどそうだと、金光教はもう天地と共に栄えていくんだと言った様な、その暗示を受けておったんです、この御理解からね、なるほど拝ませて頂く対象は天地かもしれませんけれども。
 そのいかに天地が生きてござってもね、生きた働きを現わしえない、こちらの心が枯れてしまうね。【天地の働きというものは、まいうなら電気の、電気体のようなものと、と言われております。ですからこちらが生き生きとした、その一心又は真心と、と言う様なその心でこの神様に向こうていけばですね、それぞれなその道を辿って、昨日でしたかね御理解にありますようにね、例えばこのようにその道を辿れば、このスタンドの灯りのように、光が灯るスイッチを押せば。
 このマイクのように、やはりここでお話したものが全館に響き渡るほどしのおかげが受けられる。洗濯機において然り、電気ストーブにおいて然り、まあ電気器具屋に行くと、それが一杯なんですよね、今ね。そういう様々な形の違った働きというものが、そこに現わす事が出来るんですけれども、例えば線が切れておったりしたら、どう言う事になりますか。いくらこれが百燭光のここに電気があっても付きやしません。いくらスイッチ押しても付きません。取り替えなきゃなりませんね。
 天地にどのような凄まじいまでの、ほんとにですよ凄まじいんですよね、天地の働きというのは。凄まじいまでの働きがありよっても、それをキャッチするというかね、する働きというものはね、私し共の心が、やはり生きておらなければ駄目だと言う事。【どんなに高度な、あぁ例えば電熱がそこにありましてもですね、枯れた竹やら枯れた木をね、ゴム手袋やらはめてから、そこに当たったっちゃビリッともこんです。】けれどもそれが、その生きたものを持ってするからね。
 電流がそこへ伝わり流れていき、そしてそこからその作用がです、様々な形に現れて作用を起こす事が出来るのですね。どんなに詳しい事が分かり、分かりましてもね、ここの所の信心がなされないならばね、あたしはもう、本当に金光教は駄目になってしまうと思うですね。生きた働きというものが全然無い。昨日ある教会に、ここの御信者さんが、ここの御用で行かれました。ところが、まこちらにおあがんなさいと言われて、まあ上がられて、えらいこう、まほとめかれて帰ってきなさったんです。
 そしてその聞かれる事はですね、合楽での各々助かり具合ね、どういうおかげを頂きなさるですか、大体少年少女会やら、青年会やらっていうのは、どこの教会でも作っちゃ消え、作っちゃ消えして、そのなかなか出来んのですけれども、合楽の場合はどんなふうですか、いうてまあその、少年少女会のことはというて、もうとにかく私しの方の子供もおかげを頂いて、兄弟二人であちらにでて、あの行きますが、もう行ったら、帰り道がわかりません。ていうほどに教会に行くことを楽しんで行きます。
 私達もあちらにもう参りますと、もう帰る時間なんか忘れてしもうて、お話しに熱中しますというて、まあ話しをされるんです。だからそういう所は、こうまあ聞かれたけども、そういうその原動力になっておる所、大体先生どげなんこと教えよるですか、どげなんこつ話しよるですか、どういう信心をしよるですかとは聞かれない(笑い)。只形の上に、大祭なんかん時に行ってみてです。
 やはりどこにも見られないような生き生きとした雰囲気というもの、そこん所だけを、聞いた尋ねたりしたがって、そこの元ん所を尋ねようとしないね、ですから例えば少年少女会のなんかでも、よっぽどの少年少女会が、その寄って来るためのですね、色んな例えば子供の好きな事をしてやったり、まやったりするように考えておられるようですね。けしてそうじゃない。ですからその大体どう言う様な信心を、しござりゃそう言う事になってくるかと言う事をです。
 まあ問われたらですね、皆さんはとにかく『天地日月乃心になること肝要なり』であり、天地日月乃心になる事に、私し共が精進しておると説明すればそれでいいんじゃない。まあ合楽の教会長である私は、もう天地日月乃心になる事にいよいよ精進しござると。それが例えばあらゆる作用を起こしておると言う事ね。まあ天地日月乃心という心は、というのはどう言う事かと、まあ色々に説かれております、ここでもね。お道の信心のいわば、生命といわれる。
 『実意丁寧神信心』とこう言われておりますが、その『実意丁寧神信心』と言う事でしょうね、天地日月乃心というのはね。ところがです実意丁寧、なら神信心とはどう言う事かと、と言う事になるわけです。そこでんならここでおかげを頂いておる皆さんもです、まぁあらゆる角度から様々な信心の稽古をなさっておられますが、煎じ詰めると私しは、そこん所の教えを受けておるんだと、こう思うです。ここではそうだとね。私しは今朝ちょうど一時半でした、もうありありとお夢を頂いた。
 ちょうど秋永先生の所の、いわゆる大橋なんです、ところが店構えがちょっと違うんですよね。その北側と南の両方に入り口が、こう今でもありますが、その南側の方の入り口が広くなって立派になってる。そこに秋永先生達兄弟が三人で一所懸命なにか、荷造りかなんかをしておるような状態の所にあたしが行った。ところが一歩踏み、踏み入ってから、はっとあたしが驚くほどにですね、あの思うたことはその上がり口の、あたしが考えて、はあこれがここの家の大黒柱だなと思われる。
 それこそやっぱり一尺以上もある程しの、この柱がね一尺格よりも大きな柱がに、こんなふうに寄り掛って、足を前にこう、投げ出してるんですよね。それにその亡くなられたおばあちゃんが、こうやってもうあたしが顔見たら、もうこんな笑顔があるじゃろかというような笑顔を作って、私しに会釈されるんです。そしてねこんなふうにこの大黒柱とあたしがしきりそう思うんです。大黒柱に寄りかかってですね、丁度膝の上にあたる所に大きなロウソクを持って、このロウソクが赤々と燃えとる。
 こんなふうに寄りかかっておられる、こげんしてからね。そして親先生おかげでこのような御用がでけさせて頂いておりますというてお礼を言われる。ありゃ聞いてみてから、あんまり赤いから、あの私しは、あの赤いと思うとった所がそのロウソクの灯りで、赤いのであって、あぁここは停電しとるっていのっち言いよる所でした。家ん中にやはり今が停電中じゃなかじゃろうかと言った様な事がありますよね、家ん中真っ黒なるようなこともありますよね。心ん中が暗らぁくなるような事もありますよ。
 けどもそのような時にです、霊神様の、いわば御霊の働きというものがです、いつも絶えずこのような御用ができとりますというて大きな、ロウソクを赤々と燃やしておるのも、やっぱりあまりにもありありと、あまりにも、そう頂いた目覚ましたら一時半だった。あたしすぐ起き出してから、とうとう手口ゆすいでから、神様にお礼を申し上げたり、霊神様に改めてまたご挨拶させて頂きました。有り難いほんとに尊い事だと。信心の徳というものは有り難いなと思わせて頂くと同時に。
 またあぁ早いですから休ませて頂いて、その事を色々考えさせて頂いてあの大黒柱、大黒柱とあたしが思うたという事は、あれはやはりあの大黒様の事だなと、私しが思うたんです。丁度この位あまり広いもんですからね、お婆ちゃんここにこうやって寄り掛っておるんですけども、柱の方が広いごたるです大きく。いわゆる大黒柱がバックになってるんだと言う事。もし大黒柱がなかったら、後ろへこうひっくり返るような感じ、寄り掛かっとるから。私し共は大黒柱をバックにしてるね。
 私はここで皆さんがおかげを受けておるという事はね、私しは何というてもやはり、私しが皆さんのバックだと言う事ですよね。まあ皆さんがよく言われます、いよいよ時にはもう、親先生がおって頂くからと言った様なものが、やはりその、まそのバックボーンというですかね、それが素晴らしい事もないけれどもです、まそのま、現在の程度の所のおかげを受けておる。これはここに集まってくるご信者さん方だけじゃなくて、私しに縁がある、いうならば御霊様の世界においても同じ事が言えておるね。そこに信心の光を燃やし続けて明るくしておる。
 昨日、田主丸の小野先生が、毎日ああしてご承知のようにお参りしてみえますが、昨日親子でお礼に出て参りましてね、前の日があちら今度新築がございます、病院と住宅の。それの地鎮祭を、昨日一昨日、若先生と末永さんが行ってやっております。その事の後、もう大変、もう建築あの業者は全部招待してる、それから金融関係までも、全部あの招待してあって、ま大変なまひとつまあ宴会がその後にあったそうです。
 あの人達もやっぱり呼ばれて帰ってきておりましたが、その場でですね、田主丸の信用組合の、この人が次の組合長になられるだろうという、なんとか(※誰かが“村田”と答えている)村田さんが、招待受けてみえとったそうです。ははぁもう第一に業者の方が、もう今日のような、その地鎮祭って初めてだったと、もうなんっていうその、まあいうなら真心こもったお祭りじゃったじゃろうかていうてそのう。
 もうとにかくあの、お供えの一つひとつの盛り方の素晴らしさ、まるきりありゃ置き物のごたった、若先生だって末永さんだって、そうたいしたこつなかけれども、まあ見なり聞きなりで、盛り付け七台か八台かできたらしいですけども、果物野菜色々盛ってあったらしいんです、それが見事であったこととですね、もうあの堂々たる、あの祝詞を聞きよったらね、もうほんとこらもう、ここがまぁおかげちゃいわんばってん、まぁおかげ頂だくだろち、いうふうに思ったっていう、後ろから拝みよってから。
というてその、まあぁ金光様あぁ御信心ぶりを持ってした、その地鎮祭が、業者の人達にも、関係集まった人達が非常に、ま感動を与えたとこう言う。でその御直会の席上でその、村田さんが言われる。とにかくよその金光さんは知らんばってんか、合楽の金光さんだけは違うちこういうた。これはもう第一ですね、この金光教あのう金光教だけじゃないけども、宗教関係なんかには絶対金は出さないっていうのが原則だそうですね。非生産的だからなんですよ。
 これが工場ば建てて工場ができた、なら貸すけども、宗教関係には金は貸さないていうのが、こりゃもう銀行屋さんの原則だと。それを組合長がですね、まあ一つの英断を下して、まぁあんなにたくさんまとまった金を貸されたって言う事は、もうとにかく業者間でですね、もう不思議だと言っておるんだそうです。私し達はそりゃあそんなことはいっちょん思わなかったけども、話し聞いてみると、やっぱおかげ頂いとったなとこう思うんです。それからね。
 もうとにかくあれだけまとまった金がですね、もうこれっこそ一分一厘間違いなしに、きちっと支払いがでけていく事に、こりゃあもうそれに従事しておるその銀行員の人達が全部がたまがっとる。だからもう、ここの委員長は、もうあそこの信者で毎日お参りしよるから、もう絶対おかげ頂くですよっちいうてから(笑い)その私しはその他んこた分からん、けど金融関係の事だけなら、合楽の金光様は大した事ですねというて、もうもう大変その褒められて、まあ面目を施したというて。
 昨日先生が来てから話しておりましたね。そう言う様なです、例えばおかげというかね、働きがです、そういういわゆる作用がですね、どこから起きておるかというと、私しは私し自身が天地日月乃心になることに、いうならば一生懸命精進しておるからだと、こう思うのです。そこ、ここで御神縁を頂いておられる皆さんが、一人ひとりがおかげを受けてね、そういうおかげの受けられる事実をですね。
 身を持って皆に伝えていくと言う事がですね、いくらでも自分の周囲が明るくなる事であり、おかげの世界が広がっていく事なんだね。ただおかげも実際に頂かずに、いかに宣伝したところでですね、それではあたくしは値打ちはない、やっぱりおかげを受けて、おかげを受けたものが、いうならマイク代わりにならせてもろうてね、沢山の人にそれを伝えていくという事ね、そう言う事になるから、天地と共に極まりなくね、家繁盛子孫繁盛、教会教団の大発展になっていくのです。
 けれどもそこのところを、私しは願わずし、そこのところを修行せずしてです、どんなに教団の発展を願う、いわゆる善後策がねらわれておりますよね、いわゆる教団のある意味での曲がり角だというふうにも言われます。だからいや方法論と言った様な事ではなくてです、根本になるものをです、私し共がそこに気付かせてもろうてね、そこの所をいよいよ身に付けていく所の修行もさせてもらわなきゃならん、その根本になるものはどうかというと、天地日月乃心になる事が肝要だと言う事です。
 そりゃできません、曲りなりではありますけれども、いうならばここではあたしが大黒柱。その大黒柱がです、天地日月乃心になる事を、これは生涯ここに焦点を置く事でございましょうけれど、ここにに精進さして頂いておるおかげでです、合楽はいよいよ今年よりも来年と言う様にです、繁盛していく事を私しは信じます。それは私しが、ここに取り組んでおる限り。そこにならここで御神縁を頂き、教えを頂いておる皆さんもです、ならここに焦点を置かなければいけないって言う事。
 でなかったら生きた、いわばマイク代わりになる事すらもできないと言う事。決して金光様の御信、金光教がです、この御理解7節から頂く、その感じからいうとです、はあ金光教は天地の親神様を信心しよるとじゃから、もう腐る事がない、もう絶対いついつまでも、天地と共に極まりなく繁盛していく、宗教だというような、安易な考え方を捨てなければいけない。
 金光教だって、いうならばです、先ほど私しが申しました、ある偉い先生が書いておられますようにね、教会の沢山の教会の、所々には生きた働きを現わしておる所があるけれども、と言う事は、その以外のものは生きた働きをなくしておるという意味なんだ。してみると、段々そういう生きた働きが少なくなっていきよるとじゃけんで、じゃからこりゃ決して安易な、いわゆるあぐらかいとったんじゃ、つまらんと言う事になりますね、私し信奉者の一人ひとりがですね。
 ただ今頂きます、天地日月乃心と言った様なその心にね、只そら実意丁寧ってことは、誰だって金光教の信者だったら言いますけど、実意丁寧と言う事をですね、頭ばこうやって深ぁく下げたり、お辞儀ばあたしだん、御本部行ってからたまがる事はですね、もうあんまり実意丁寧に、こうお辞儀しなさるけんで、ちょいと頭上げると、まだお辞儀してござるもん。それけんまた改めてお辞儀せにゃん。
それを実意丁寧なように言うとる人があるんですよ。はああっちの先生は実意丁寧な、もう頭すりつけてからお辞儀さっしゃる。だからそう言う事を実意丁寧と思っておるようなね、ことではいけません。なるほど言葉だって態度だって、思うておる事だって実意丁寧な思い方は有り難い事ですよ。私しはどっちかというと、ろくそなか方ですけん、それは出来ませんけれども、けども【ほんとの意味においての実意丁寧、天地ほど日月ほど、あたくしは、狂いのない間違いのないものはないと思うね。
 そういう間違いのない生き方ね、しかも天は限りなく与えるもの、地は限りなく黙って、受けて受けて受け抜いていくものね、だから与えてやまん心を頂くために本気で限りなく美しゅうならなければなりませんね、限りなく大地のようにです、黙って受けれる修行さしてもらうと言う事がですね、その辛抱力こそがです、それを作っていく事が、天地日月乃心になる事なんですね、天地の心を心とするわけなのです。だからそこに焦点を置くのですから、とても極まりない限りがない。】←初めて天地日月の心の原石?
昨夜の御祈念の後に、大和さんやら、ああ久富勇さん、あたりがおられました。で5、6人で残ってお茶頂きながら、色々話しておる時に、勇さんがこう言う事言われました。毎朝こうやって朝晩こうやってお参りさせて頂いて、まあ一生懸命まあそれも、ただ今修行の真最中という所を通らせて頂いとるから、出来る事ですけれども、朝起きる時にもう眠うして、しるしゅうして堪えんっち。
 そん時に私しは思いましたっち。今修行中にです、こういうおかげを受けなければならんから、それに対して取り組んでおる時にです、こげなんしるしい思いであったら、おかげ頂いたら、ね、もうお参りすらでけんごつなろうと思いますっち言う。これじゃあ神様がおかげ下さるはずがありませんっち言うておられます。ほんとにそうですよね、もうそれこそ尻、火がつくごたる、いわば修行させられておる時だから、でけておる。それでも眠うして眠うして起きる時が、しるしうしてこたえんって。
 こういう事ではです、いつおかげはまあだ頂けんと思います、こう言う事が嬉しゅうなり、その修行さして頂くことが楽しゅうなりね、ときに初めて神様はあたくしにおかげを許されるだろうという意味の事を言われるんですね、そこがなら今勇さんが何に取り組んでおられるかというとです、もう限りなくいわば大地の信心を身に付けようとしておられるわけなんです。まあようああいう状態からこのような事がでけられると思うほどしに、限りなく美しゅうならして頂く事にです。
 天の心を心として、地の心を心としてですね、精進しておられるのでございます。ですから、そういう精進があっておる限りです、もうおかげは絶対ね。それこそ大地を叩くほどに間違いがないね、そういう信心を本気で銘々が身に付けていくと言う事がです、天地日月乃心になることが、なのであるね。私し共の信心が天地金乃神様という神様を対象にして、いわゆる天地が生きてござると同時にこの神様は生きてござるという印を色んな場合に感じますが。
 その生きた神様とても、こちらの心が枯れたら、もうそこには神様の働きを現す事も、受ける事も出来なくなってくるです。と言う事を申しましたと同時にですね、私し共天地日月乃心になるという所にもっともっと、これをですね、研究して天地日月乃心とはどう言う事であろうと例えばああ、本気で追求してね、そこん所に焦点を、これは合楽全体の信奉者の全部がです、ここん所に焦点を置いていったら素晴らしい金光教の信心の、いうならば宣伝マンとでも申しましょうかね。
 生きた宣伝員ができるわけですね、一人が十人、百人とお導きが出来るような、おかげを頂いていきゃあね、合楽のいわば教会から、金光教の大げさな言い方ですけれどもね、うん。その今偉い先生が言うておられるように、あっちこっちぽつんぽつんしか生きた働きを現わしておる教会がないと言われるようなですね、ことではないそれがあたしはいよいよね、教団全体の上にもおかげ頂いていけれる事も夢ではない、そういうお互い一人ひとりがその精進をさして頂いたらね。
 私のいうなら信心をいうならここん所に、まあると言うてもいいね、成り行きを大事にさしてもらうと言った様な事はです、もう天地日月乃心になる事なんですね、そのいうなら大黒柱にです、ここに御神縁を頂かれる御信者さん方もね、御霊の世界に行っておられる御霊様方までも、それをバックにいうならばおかげを受けておられるというのが、現在の姿である。ただしその大黒柱をもしよけたら、倒れなければならないと言った様な、あたしは状態ね、ためには銘々がですね。
 銘々が天地日月乃心になること肝要であるという信心をですね、銘々が身に付けていくところのおかげを頂かしてもらうと言う事が大事だと言う事が分かります。どうぞ一つ天地日月乃心、とりわけいわば天地の心を、天の心を心として、地の心を心としての生き方が日常生活の上にです、ピッタリ頂き止めていけれるほどしのおかげを頂いて初めてね、いうなら家繁盛子孫繁盛が約束される。いわゆる親の代よりも子の代というおかげを受けられるのでございます。
 金光様の信心しとるから必ず子孫繁盛になると言う事では決してありません。金光教はもう絶対という事ではありません。いかに天地が極まりなく限りなく、続きましてもです、天地の働きが続きましても、その働きを現わすことのできない状態に金光教の信奉者が成り果てたら、もうそこに金光教は枯れ果ててしまうわけなんですよ。どうぞそこん所を一つ本気に、一つ頂いて頂きたいと思うですね。
   どうぞ。